ご飯は誰かと一緒に食べたい
イスラエル人と結婚して(のちに離婚したが)子ども二人を授かった。長男が生後11か月のときに初めてイスラエルに行き、義理の両親の家に4か月間滞在させてもらった時のこと。
夫とイスラエル国内を旅行していたときに
「確か、この近くに友人の家があったはず……」
と夫が思い出し、突然訪問した。
「ひさしぶり~」と嬉しそうに女性が出てきて夫とハグをした。
初対面の私にも満面の笑みとハグをくれた。
「ちょうど夕食だったの。一緒に食べましょう」
と家に招き入れてくれた。
家族が4~5人いたが、どこからか椅子を持ってきてくれて、みんなが少し席を詰めてスペースを作り、私たちにお皿とフォークとナイフ、それに冷たい飲み物を出してくれた。テーブルにのっていたのは、ピタというパン。フモスというひよこ豆のペースト。テヒナという胡麻とオリーブオイルのペースト。トマトとキュウリのサラダ。オリーブ。チーズ。シンプルなものだけれども、ヘルシーだし、私はフモスが特に好きだ。
(この写真は義母が夕食時に出してくれたもの)
(ホテルの朝食)
私は突然、しかも食事時に訪問してしまったことに恐縮したが、夫は
「ユダヤ人はたとえ貧しくても、誰かが来たら食べ物をだしてくれて、一緒に食べる。気にしなくても大丈夫だよ」
と言った。
義理の両親の家では、朝と夜は各自が好きな時間に、友人の家で食べたようなものを食べ、昼には少し手の込んだものを一緒に食べた。義理の母は最初にスープを出す。それから魚か肉のメインを一人ずつ大きな皿によそってくれた。付け合わせに、大皿やボウルに入れたサラダなどが2,3種類。そして必ずデザートも出してくれた。アップル・コンポートやアイスクリームが多かった。ランチの後は、私たちはお昼寝をした。
義理の父が「ランチだよ」と夫を呼ぶのだが、夫はいつも「先に食べていて」と言った。義理の父が「お昼ご飯は一緒に食べると決まっているのに、どうしていつも遅れてくるんだ」と文句を言い、軽くもめる。でも、なんだかんだ言いながら、いつも一緒に食べた(笑)。
やはりご飯は誰かと一緒に食べるのがいい。
【映画】『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち』
先日、『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち』を観た。アイヒマンの裁判を世界に放映するために奮闘したプロデューサーやディレクターを中心とするスタッフの物語だ。
アドルフ・オットー・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann、1906年3月19日 - 1962年6月1日)は、ドイツの親衛隊(SS)の隊員。最終階級は親衛隊中佐。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。
戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960年にイスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪・死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処された。(Wikipediaより引用)
多くの人達を死に追いやった人は、どんな人だったのか。
ディレクターはアイヒマンの表情や手の動きなど必死に追った。
その裁判を大勢の人達がいろいろな思いで見守った。
「アイヒマンとはどんな男なのか」
「どうして大量虐殺をするに至ったのか」
「ユダヤ人裁判官が感情に流されずにきちんと裁けるのか」
アイヒマンを「役人である」とか「平凡な人」と形容し、
おそらく「極悪人」と言って欲しかったユダヤ人から大バッシングを受けた。
さて、裁判を放映するには、様々な困難があった。
憎しみや悲しみをたっぷり抱えながら仕事に挑んだユダヤ人スタッフ達は
証言者の悲惨な話を聞いて辛い思いをした。
強制収容所を経験したカメラマンは証言者の話を聞いているうちに
撮影を続けられなくなるほどであった。
骨と皮だけになったユダヤ人達や、ゴミのように扱われていた
大量の死体などの実録映像はショッキング。しかしながら
目をそらしてはならない事実であり、二度と繰り返してはならない
ことだと、あらためて思った。
人間はどこまで残虐になれるのだろう。
ふとした瞬間に自分の中に残虐性のようなものをみて、
強烈に否定したくなったことがある。
もしあの時代にアイヒマンの立場にいて、同じことを絶対にしなかったかと
問われたら「どうだろうか」と少し考えてしまう。
そんなにひどいことはしないにしても、戦争であれば
人を殺さなくてはならない状況になるかもしれない。
戦争はアイヒマンのような化け物を生み出してしまうので
反対しなくてはならない。